私は、約10ヶ月間、296日間にわたって、警視庁の代用監獄と東京拘置所に身柄を拘束されました。
警視庁の代用監獄は、「牢屋」そのものでした。
東京拘置所の最初の5ヶ月は、テレビカメラによる監視付の房でした。
今日のように熱い日であっても、団扇以外に涼しさを得る手段もなく、一日中、じとじととして、汗が乾く間もなく翌日を迎える。冬の厳しい寒さの中でも、カイロを除いて全く暖房機がなく、手袋をした手にボールペンを持って、手紙を書く。
閉塞した接見室の中で、アクリル版に開けられた小さな穴を通して、会話を交わす。それが、どれほど不自然なことであるか。どれほどのことを伝えることができるのか。現実に中から体験しなければ分かりませんでした。
ただ、言語が行き交っているだけ、これが接見の現実です。
接見室ではなく、各居房の中に入り込んで接見できなければならないことの大切さは、被拘禁者の権利保護において、本質的な問題であったわけです。
付箋がなく、マーカーがなく、ホッチキスがなく、コピーがない。もちろんコンピューターもワープロもない。
こういう中で、どうして、記録を検討し、誤りや矛盾を追及していくことができるのか。一体、どうやって、防御をせよというのでしょうか。それは防御権の剥奪というに等しいものです。
一日中檻の中に閉じこめられ、ものとしてしか扱われず、もっぱら管理され監視される。それは、正に、監禁であり、剥き出しの暴力以外の何ものでもありませんでした。これは、耐え難い苦痛であり屈辱でした。
せめて真実有実であり、しかも、それが公正な裁判手続によって認定されたならばいざ知らず、検察官が私を起訴し、罪証隠滅のおそれがあるというだけで、これだけの苦痛を負わされるわけですから、もはや、そこには、法の支配は存在しません。
無罪推定の原則は何処に行ってしまったのでしょうか。
厳格な証明により有罪が認定されなければ、罰金でさえ科せられることがないという、自由原則は一体どこに行ってしまったのでしょうか。
私の自由を奪った理由は、私が罪証隠滅をするおそれがあるということでした。
そもそも、罪証隠滅するおそれが、どうして、私の自由を奪う根拠になりうるのでしょうか。人身の自由は、それほど軽いものだったのでしょうか。
現に、私が、罪証隠滅をしたならばまだしも、私が罪証隠滅をするおそれがあるということだけによってです。
しかもそれは、検察官が約70頁にわたって作成した全くの虚偽と敵意に満ちた調書を根拠とするものでした。国家刑罰権行使の要請は、それほどまでに絶大であるはずがありません。
私たちは、99人の有実の人が無罪となったとしても、1人の無辜の人が有罪になってはいけないとの理念の下に、刑事手続は存在すると教えられてきたはずです。
しかし、現実はそうではなかったのです。刑事手続は、官憲の恣意的な拘禁の手段あり、これを正当化する道具として利用されているのです。
私の友人の弁護士は、私に、有実を認め、検事に謝罪し、弁護士を辞めることをアドバイスしてきました。そうすれば、起訴と同時に保釈となり、執行猶予の判決を得て、3〜4年して復活すればよいというのです。
私に、やってもいないことをやったと認めろとアドバイスした私の友人は間違っていたのでしょうか。そうではありません。
私は、彼のアドバイスに従いませんでした。しかし、そうであるが故に、10ヶ月間も勾留され、5000万円もの保釈金を支払わされて、今なお、行動制限をされた上に、月に2回という裁判の負担を負わされているのです。
間違っているのは、私の友人ではなく、未だ有罪さえ認定されていないのに、逮捕・勾留され、否認すれば、罪証隠滅のおそれがあるとして、保釈を認めない、現在の、日本の刑事司法であるのです。
逮捕、勾留に対する恐怖は、死刑と同じく、被疑者をして、やっていないことをやったと認めさせるに十分であり、その不利益は、弁護人をして、依頼者に、やっていないことをやったと認めるようアドバイスさせるほどに絶大なのです。
不本意にも、弁護人は、依頼者の利益を守るために、検察官の手先になって、依頼者を説得して、事実でないことを事実であると認めさせざるを得なくなっているのです。
私は、実に、迂闊でした。私は、捜査段階において弁護人がおれば、えん罪を防ぐことができると考えていました。刑罰と勾留とは別物であると考えていました。しかし、そうではないのです。
勾留は、刑罰といささかの変わるところなく、あるいは、それ以上に苛酷であり苦痛であったのです。
保釈においてもしかりです。保釈は、決して勾留の苦痛からの解放ではありません。5000万円の保釈金は私に借金と利息という名の重大な経済的不利益を課しています。これは、罰金と何ら変わりません。
ましや、行動制限は、私の日常生活に大きな負担となっています。逮捕・勾留さえなければ、被疑者は、弁護人の援助がなくても、拷問も自白の強制も受けることはありません。
やっていないことをやっていないと堂々と言うことができるのです。言い換えれば、逮捕・勾留が存在する中にあっては、捜査段階から弁護人の援助を得られたとしても、それは、多くの場合において、あるいは決定的な場面において、えん罪を作り上げる道具でしかないのです。
富める者も貧しい者も、捜査段階から等しく弁護人の弁護を受けることができてしかるべきですし、これが当然に実現されるべきでしょう。しかし、日本の刑事司法の病巣の核心はそこにはないのです。
未決拘禁を当然のごとく認めている。問題の核心はそこにあるのです。
これらの徹底した抑制と廃止を射程距離におかない刑事弁護の指針は、刑事弁護の名に値しないものです。
このことを、是非、今日、中部弁護士連合会、そして日弁連の刑弁センターのメンバーに理解していただきたいと思います。
まず、刑訴法89条第5号を削除させることが肝要でしょう。そして、やがては、少なくとも、勾留制度を廃止させようではありませんか。私たちが、将来においても、誤りない指針を呈示できるとすれば、それは、逮捕・勾留を制限し、そして、これを廃止することにあるのです。
ゴビンダさんが、現在もなお、東京拘置所に拘禁されていることを許していることこそ、私たちにとって、限りない恥辱であると思います。そして、これが、私の10ヶ月の屈辱と苦痛の中で知らされた結論でもあるのです。
ありがとうございました。

※この文章は「安田さんを支援する会 NEWS NO.16」に掲載されています。
《安田さんを支援する会・東京の連絡先》
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『未決拘禁の廃止をめさして』 
中部弁護士連合会「刑事弁護経験交流会」での
安田好弘弁護士の発言


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