※本稿は、9月14日におこなわれた「私たちと国際人権・第11回 日本での難民生活と難民申請について話を聞く会」でのお話です。( )の中の文章は、第三者に分かり易いように補足したものです。尚、文責は本紙にあります。

★質問★ なぜ、どうして祖国を離れましたか?
(質問の意味を取り違えられたのか?)
最初東京にいて、それから名古屋に来て、申請をしました。それは1999年のはじめ、1月のことだったと思います。私は最初、東京にいて、東京入管へ行って、その後で名古屋に来て、名古屋の入管に行ったわけです。

★質問★ なぜ日本を選んだのでしょうか?
他の国にではなく、日本に来ることしかできませんでした。カナダとか、オーストラリアとかアメリカなどへ行くことは、(アフガニスタンがアメリカや他の国の連合から攻撃を受けているために)困難でしたし、お金もたくさんかかる状況でした。それで、日本に来たのです。

それと、私が日本に来たのには、もうひとつ理由があって、実は以前に2回、日本に来たことがあったのです。だから、日本の治安の状況とか、その他いろいろな事、文化とか、一般的な情報はすでに知っていたのです。だから、私は日本を選んだのです。

★質問★ どのようにして難民認定手続を知りましたか?
私の日本人の友人も(そういう事について)知っている人はいませんでした。どこで誰に聞いても「わからない」というのが実状のようです。だから、私は、直接、東京の入管へ行って、じかに、「自分はどうしたら良いのか」と聞きました。

★質問★ 日本には、前々から知っている友人はいましたか?
いました。日本人が、(この戦争で)私たちを攻撃したわけではないので、私は、パキスタンのあたりを経由して、日本に着きました。

★質問★ 日本では、どのようにして生活を支えていますか?
私は、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ドイツ、などといった国々の、難民の政策について、いろいろ聞いているのですが、それらの国では、難民が生活するのに(日本よりも)生活しやすいようです。

(例えば)「自分はハザラ人であって、祖国に帰れない、命があぶなくなる」などの事情を(その国の政府に)訴えると(政府が)ホテルを用意して、そこに泊まれるよう便宜を図ってくれたり、食事などを手配してくれたり・・・(政府が衣食住の手配をしてくれる)そういうことをしてくれます。

そのほかにも、例えば(政府が)仕事の斡旋をしてくれたり、(政府のお金で)語学学習のためのスクールに入学させてくれたり、そういうシステムも外国の難民(受け入れ)政策にはあるそうです。

しかしここ(日本)では(難民が)全部自己負担でしなければならないうえに、強制収容されてしまったりします。

(日本に来た難民は、生きてゆくために自分で)いろんな仕事を探しながら、そして必死に仕事をしながら、難民に関する書類の申請も進めなければいけない。それで、全ての責任は、全部難民自身に求められるのです。(政府からの)援助が一切ないので。

いまは、日本語の会話を学びたいということで、勉強しているのですが、実際は語学学校などに行って、学んだ方がよいと思うのですが、そういうことは(先に述べたように、外国政府のような、難民(受け入れ)政策が日本の政府にはなく、自分にはお金も時間もないので)できません。

★質問★どうやって住むところを見付けましたか?
仕事をしている、そこの人(経営者?)がアパートを借りていて、その同じアパートに(便宜を図ってもらって)住んでいます。ですから私は、仕事をさせてもらった時に、同時に住まいも得ました。

しかし、アフガニスタンの友人が3人、日本にいます。特に彼らは、住む場所が、日本人のように簡単に見つかりませんでした。「保証人」というしくみがネックになっているのです。

★質問★病気になったときは、どうしますか?
(難民の)誰にでも、そうした問題があるわけですが、病気が深刻ではない場合には、街の薬局に行って薬を買います。しかし(病気が深刻な場合には)健康保険なしに、病院に行くこともあります。
じつは7〜8ヶ月前に、友人が(交通)事故にあって、1ヶ月間入院しました。それは、アフガニスタンから逃れてきた友人で、彼は病院で孤独でした。そこに、難民シナプスという大阪のNGOが、彼のために、彼のもとへ連絡をされたそうです。

日本では、そういう、アムネスティとか難民シナプスというような、(本格的に)事務所を構えた(組織による)難民支援体制が、他にはほとんどありませんね。

その、事故で入院した友人は、1ヶ月で(まだ完治したわけではないが、孤独に耐えられなかったのと、お金がなかったので)退院してしまいました。そして退院してからも(政府からの)医療に関する支援はありませんでした。

その時、他の難民たちは東京の入管の収容施設に強制収容されていました。ですから(その友人は)、自分も(退院したのだから)収容されるのでなないかという、ひどい恐怖感におそわれていました。

その友人は、入院し、退院し、その後(不自由な体になったので)、思うように仕事ができず、強制収容の恐怖におびえながら、生活がしていけなくなって、(彼にとっては)遠い異国の地(すなわち日本)で、孤独のうちに、自ら死を選びました(Mさん、目をうるませ、少し涙声でした)。

★質問★日本に来て、いちばん辛かったことは何ですか?
(日本で)仕事を探すこと、(日本で)収容施設に入れられたことです。4か月と13日間収容されていたことが辛かったです。

★質問★他の国へ行きたいですか?
難民として他の国へ行く場合、わたしの場合は日本に来たわけですけれども、その国(日本)の文化だとか、言語などを学ぶ期間が短かったので、(事前に学ぶことができなかったので)日本に来てから、少しは日本の文化とか言語などを学んだのですが、これからも、この日本で継続して学びたいと思っています。


参加者からの質問

★質問★ 経歴を拝見すると、弟さんがおられて、タリバンに捕まったそうですが、その弟さんやご家族の方たちの消息は、いま、わかっているのですか?

弟がタリバンに捕まったのですが、その事以外、家族のことは何もわかりません。生きているのか死んでいるのかもわからないのです。

★質問★名古屋入管に4か月間収容されていたわけですが、そのなかの状況について、私の知り合いのビルマ人の方からは、非常に劣悪な状態だと聞いていますが、そのへんの状況を具体的に教えてください。

6メートル×4メートルぐらいの部屋に6人から7人ぐらいの人が入っています。(私はその劣悪な状況に対する抗議の意味で)2回にわたり、2週間のハンガーストライキをしました。その時に私は衰弱してしまい、病院に搬送されて点滴を打ちました。

最初、収容された時には、私の体重は87キロでしたが、出てきた時には63キロでしたので、
私は、収容中に24キロの体重を失ったことになります。


アフガニスタン難民Mさんの(ハザラ族)のお話

コラム・投稿へ
目次へ