裁判員制度に関する民間公聴会公述人 太田 稔 私は、1999年10月に無罪が確定した甲山事件の救援会の事務局で活動してきました。事件発生から25年、刑事裁判開始から21年以上かかり、日本一の超長期裁判といわれたこの事件は、司法制度改革に向けて数多くの教訓を残しました。 虚偽自白の温床といわれる代用監獄制度をはじめ、現行の捜査、裁判制度は、これからもえん罪事件を繰り返し、現に発生させ続けています。しかし、司法全体が、えん罪事件への反省の上に立っているかというと、残念ながらそうではありません。警察、検察はえん罪事件そのものの存在すら認めようとしません。真犯人が現れ、えん罪と認めざるを得なくなってさえ、「捜査は適法だった」というコメントを繰り返すばかりです。 検察も、無罪判決の研究と称して何をやるかといえば、「なぜ有罪判決を勝ち取れなかったのか」という視点からであり、被告人側にスキを見せない公判戦術を「研究」するのです。無罪判決を謙虚に受け入れようという反省のかけらもありません。 また、裁判所においても、間違った判決に対する真摯な反省をしているという話は聞きません。 本当に、市民のための司法改革が実現するのか、多いに疑問ですが、それを実現させるのは、他ならない私たち市民です。 今回、「裁判員制度」について、それを実効あるものにするために、甲山事件から学びたいと思います。 1、事実認定こそ、市民感覚で 刑事事件の事実認定は、法的な問題ではなく、生活感覚の問題です。甲山事件の一審無罪判決を覆した二審の「差し戻し判決」は、常識をはずれ、「知的障害者は作話能力がない」とか「見たことしか言わない」など、誤った認識、あるいは、「証拠能力に限界があるが重要な証拠」などといった論理矛盾を平然と繰り返しています。これは、はじめから被告人を犯人視し、そのために、証拠を都合良く解釈するという本末転倒した思考の結果です。被告人と同じ視点に立つことが出来る一般市民こそ、被告人の訴えに耳を傾けることが出来ます。その上でより公正な判断が期待できます。また、市民が裁判に参加することで、裁判が身近になり、法治主義、民主主義がより徹底すると思われます。 そのためには当然、裁判員の数は、裁判官の数を大きく上回る必要があります。アメリカの陪審のように12人くらいいなくては、活発な議論は期待できないと思います。様々な人がいてこそ、あらゆる視点から証拠を見ることが出来るのです。誰もが、間違いなく犯人だと確信してこそ、有罪の判決が出せるというものです。少しでも疑問があれば、「疑わしきは罰せず」のルールを適用して、無罪判決を出さねばなりません。 2、取り調べの可視化 裁判員制度を有効にするために、まず、調書裁判の改革が必要です。甲山でも、自白調書、供述調書をめぐる、あれやこれやの解釈論議には、莫大な時間と労力を使いました。それらは、取り調べをビデオテープに録画すれば、簡単なことです。捜査側にとっても、違法捜査を疑われないために、プラスになるはずです。捜査官が書いた調書をあれやこれや議論することは徒労です。甲山事件では20数年にわたってその調書をめぐる堂々めぐりの議論をしてきたのです。理屈と膏薬はどこにでもくっつくのたとえ通り、検察は論理が破綻してさえ、レトリックを駆使して、有罪の論戦を続けました。 裁判員制度では証人の法廷での証言だけを証拠としなければなりません。 3、証拠開示 検察と弁護側は、情報を共有してはじめて公正な審理が保障されます。争点を明確にし、審理の期間を短縮する意味からも、絶対必要です。特に、法廷での証言が重要になってくる裁判員制度のもとでは、尋問の元になる証拠類は、全てあらかじめ弁護側に開示されなければなりません。 4、検察の上訴権の制限 甲山事件が長期化した原因の一つに、二度の無罪判決に対する検察控訴がありました。一度無罪判決を勝ち取ったものが、更に、有罪の危険にさらされるのは、不合理です。憲法39条は、無罪判決に対する上訴の禁止を謳っていると解すべきです。 以上 |
| 裁判員制度に望むこと |