このたび真言大谷派では、死刑判決を受けた方々の作品を展示する『いのちの絵画展』を開催する運びとなりました。 私たちは、昨年厳修(ごんしゅう)した蓮如(れんにょ)上人五百回御遠忌(ごえんき)のテーマとして「バラバラでいっしょ−差異(ちがい)をみとめる世界の発見−」、スローガン「帰ろうもとのいのちへ」というメッセージを発信いたしました。 それは私たちがこれまで、差異を認めず、出会うことをさけてきた多くの人たちがあったことへの反省からのものであります。差別・排除してきた多くのいのちの声を聞き届け、「御同朋(おんどうほう)・御同行(おんどうぎょう)」という世界を回復していきたいと願っております。 その一環として、昨年6月25日に3名の死刑囚に対する刑の執行があった際に、総長名による「死刑制度を問いなおし死刑執行の呈しを求める声明」(6月29日付)を宗派として表明し、教団内はもとより、広く社会に対して死刑制度について議論していくことの大切さを呼びかけました。 ここ数年、継続的に死刑が執行され、そのたびごとに複数の方のいのちが絶たれています。いのちある者の生が奪われることは、それが犯罪によるものであっても、死刑によるものであっても、非常に痛ましく悲しいことであります。仏教はその基本に「不殺生(ふせっしょう)」という思想を持ちます。だれひとりもれることなく、すべての人が尊重されなければならない、殺すな、殺されるな、殺させるな、人権尊重の基本であります。 『涅槃経(ねはんぎょう)』の中で釈尊(しゃくそん)は、父王殺害に苦悩する王子阿闍世(あじゃせ)と対面し、「もし汝(なんじ)父を殺して当(まさ)に罪あるべくは、我等(われら)諸仏(しょぶつ)また罪ましますべし」と述べ、阿闍世の父王殺害の罪を、自らも共有するものであると受けとめられております。ここには、その罪を阿闍世一人(いちにん)に負わせるのではなく、社会的・歴史的なものとして、共に引き受けていこうとする釈尊の姿があります。 一方私たちは、加害者の死によって被害者の死が報われ、被害者遺族も癒(いや)されるように考えがちです。死刑による死によって一つの事件が解決し、終止符が打たれます。でも、本当にそれでいいのでしょうか。 「死刑制度という憎しみは育てることはあっても、決して愛すること、悲しむことを育てることのない安易な方法(宗派声明)」を問いなおしていく場が開かれていくことが今もとめられております。 今回開催する『いのちの絵画展』には、死刑囚が獄中の厳しい状況にあって、ボールペンなどの限られた画材を用い、一本の線にいたるまで丁寧(ていねい)にかきあげた作品が出品されています。私たちは、まず死刑囚について知ることからはじめたいと思います。素晴らしい絵を描くから彼らを救いたいというのではありません。ただそこに、ひとりの人間として死刑囚がいることを、殺されるものとして生きながらなお表現し続ける彼らの存在を感じたいと思うのです。そのことが、私たちに死刑制度を考える、大切な手がかりを与えてくれると思います。 人を排除することによって成り立っている私たちのあり方にこそ、罪を感ずるがゆえに、まず、一人ひとりの死刑囚が想いを込めて描いた絵一枚一枚の前にたたずむことから始めたいと思います。 この『いのちの絵画展』をとおして、一人でも多くの方々と共に、私たちの社会が維持している死刑制度を問い直し、またその社会に生きる自分自身を見つめていきたいと心より願っております。 1999年4月1日 真宗大谷派宗務総長 木越樹(きごしたつる) |
「いのちの絵画展」開催にあたって |